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朝鮮王朝の祭礼の場:宗廟(チョンミョ)踏査でわかった朝鮮の庭の観念。韓国歴史ドラマを理解するにも役立つ朝鮮の建築美。日本の庭園と異なるのは何か?

史跡踏査

韓国で20年過ごし、日本帰国に際し、見納めに行ったところがある。宗廟であった。何十年も韓国に住んでいながら、宗廟には行ったことがなかった。

いや、写真や雑誌でよくみかけるから、足をわざわざ運ばなくてもいいのではと高をくくっていたこともある。

しかし、最後の韓国生活のクライマックスにふさわしく、今回は気づきもあった。それが、韓国の庭の意識である。

宗廟は朝鮮王の位牌を安置し、祭祀を行ってきた、非常に厳かな場所ではある。実際そこに入ってみると、宗廟は横に細長く、その前は石畳の広々とした空間が広がっている

一見何の装飾も施されていない、日本庭園のような池や木々もない。

しかし、どこか、迫ってくるものがある。何か問いかけてくるようなもの。

それは、死者との対話であったのだ。

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韓国での生活から起こる違和感

韓国で生活していて、非常に窮屈に感じたのは、その広さにあった。何をいっているのか、狭いから、窮屈なのではないか。

と思うかもしれない。しかし、私は、広々としていて、窮屈なのである。

その第一が、宮殿である。宮殿の前は、どこも石畳の広々とした広場(庭)が広がっている。庭と読んではいけないかもしれない。

第二に、家の中のリビングルームである。大抵は、ソファがあり、その前にテレビがおいておるのだが、広々としていて、どこに座っていいことやら、いつも私を迷わせる。

招待などを受けて、人様に家にお邪魔するとき、いつも脅かされるのは、その居間(リビング)なのである。

よくよく見ると、家族全員が入り、親族が来ても入り切れるほどである。

これは、きっと名節(韓国の国民の祝日)のときに、多くの親戚が訪れてもいいようにできているのではないか。

多くの人がそこに入って、何かをする。特に先祖への祭祀をするにも、充分な間取りではないか。

朝鮮王宮訪問で気づいたこと

ソウルにある朝鮮王朝の王宮に入ると、そこも広々としている。みな思い思いに写真をとり、その大きな王宮の前の庭には行事なども盛大に行われることもある。

真夏に景福宮に訪問したことがある。日差しは照り付ける。それは、猛暑の中では耐えられないほどであった。

日本の神社や仏閣であれば、木々などが神木となり、日よけができるほどである。また、山や森が神の宿るところであるから、夏でも木々の中で、休むことはできるであろう。

宗廟に隠された廟庭(月台:ウォルデ)

宗廟に赴いたときも同じであった。広大な庭、これを月台というのであるが、月がそこに置かれるほど大きな台という意味なのだろうか、とにかく広々としている。

そして、その月台を前にして、横に細長い廟がある。ここに位牌(神主という)が安置されている。その廟も庭からやや高いところにある。容易には登ることはできそうにはない。

ではこの廟と庭はどういう関係にあるのだろうか。

廟は位牌つまり、霊魂(死者)を安置している。それは死者の場所である。祀ればやってくる。では生きている生者はどこにいるのか。

その場所が庭つまり月台(ウォルデ)なのである。

この場所で祭祀が行われる。

朝鮮の宮殿にとって重要な行事といえば、祭祀である。

祭祀のために、何日間も沐浴斎戒しながら、飲酒を禁じ、祈りをささげていく。

その場所が霊廟の前にある、月台だったのである。

これは廟にやってくる死者ここではすでに亡くなった歴代の王と王妃。そして現に今政治を行っている官吏がそこで集い祀りを実行していく。

ここにおいて、死者と生者が交わうのである。

朝鮮の宮殿や宗廟はこの生者と死者が交わう場所として造られていた。

朝鮮の庭は死者と生者が交わい、行事を行うところであった。日本の庭は目で愛でるものである。そこに人がごった返して祭祀を行うことはない。自然との共存、自然を愛でるためのものであもある。

韓国の家の構造をみると、その居間の広さは何を示していたのか。まさに、人々が集まり、話をやり取りするばであり、祭祀を行い、先祖と交流するためのものであった。

宗廟の月台はまさに、多くの人々が入る空間であり、そのために、広々として空いていることが必要であったのだ。

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