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朝鮮王朝26代王:高宗(コジョン)とその時代。鎖国と開化の狭間で。日本の近代化と朝鮮の鎖国。今我々は何を見るのか。日本へのまなざしを分析する。

歴史考察

私は韓国の近代化を考える。果たして近代とは何であったのか。

日本は近代を開化つまり開国によって、西洋の列強の先進文化を受け入れ

近代化を図ったという。

その反面、朝鮮はどうだったのか。

朝鮮は日本とは逆に鎖国に終始した。

その背景となっていたのが、儒教思想であるといわれる

特に、朱子学一辺倒の学派であった。

周辺国特に西洋の列強の文化は、西学と言われ、迫害の対象となった。

日本にも朱子学はあった。しかし、そこまで、対外思想を悪くは扱わなかった。

それ以上に、それらを学びの対象として捉えた。もちろんキリスト教は迫害の

対象であったが、学問との対立でそうなったのではなかった。

政治の権力者の恣意が主な理由だ。

朝鮮は外国の思想を完全に悪と決めつけた。

彼らが小中華で、あくまでも、その思想を守りつづけた。

フランスやアメリカの開国要求を撥ねつけた。

日本についてはどうだったか。結局開国したのである。

はたして、武力に威圧されたからであろうか。

武力であるならば、フランスやアメリカもそうであった。

しかし、フランス、アメリカと日本への対応は異なっていた。

つまり、日本に対してでいえば、緩かったのである。

一つには近隣国への油断と、今まで日本はプサンに、倭館といわれる貿易する地域を

決めていた。そのことの影響は大きかった。

不平等条約を掲げるとは予想しなかったのではないか。

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高宗(コジョン)と大院君

高宗は26代王である。25代王の哲王の後継者がなく、そのために、仁祖(インジョ)の6孫にあたる大院君がこの王の座を息子の高宗に託そうと図る。

結局この高宗が王として11歳で即位する。

高宗をサポートするように父である大院君がここで摂政をつとめる。

彼の政治は朝鮮の改革と

西洋列強への鎖国であった。

大院君と鎖国

彼の鎖国は、キリスト教の宣教師さらには、信者への迫害によって

明白となる。フランス人宣教師他信者が数千人処刑となったという。

その責任を追及するように、

列強は朝鮮に開国に迫る動きをする。

朝鮮の対応は鎖国死守であった。

そしてフランスや米国の艦隊を砲撃したり、焼き討ちにして追い返す。

閔氏の勢道政治

そのころ王妃として迎えられた閔妃が彼女の氏族を政界の

要職に占める勢道政治が始まる。

そして

大院君は政界から追放される。

その後、朝鮮は鎖国よりも、開化派の影響と相まって

開国の方向に進んでいく。

その一つが清であった。

しかし、これは伝統的に宗主国との関係から、

それほど違和感のあるものではない。

その次に問題となったのは、「日本」である。

日本の近代化の情報は知らされていた。

しかし、西洋列強とは一緒ではなかった。

そこには、近代化を進めていた日本を近代国家として捉えることに、

やや抵抗感があった。

そして、まさか、文明の伝達者であった国が、開国を要求するなどということは

ないだろう、という警戒心はなかったと思われる。

そして、江華島事件が起こる。

江華島事件を考える

雲揚号が江華島に上陸を求めた。そのときに発砲事件と両国が戦闘状態となった。

しかし、そののちそのことの賠償や責任を追及するために、

江華島条約を突き付ける。

朝鮮はいとも簡単に、その条約を受け入れてしまう。

もちろん、軍艦の砲撃の脅しがあったというが。(ペリーが日本に行ったように。)

しかし、ほんとうに単に脅しだけで、条約を受けたのであろうか。

私はまだその結論に達する前に、検討しなければならないことがある。と考える。

その一つが、

朝鮮の日本に対する考え方。

西洋列強と比較したときには、日本はまだ、西学とは異なるものだったという解釈である。

つまり、西洋と日本は分けられていた。

日本は今までも、倭館などを通じて、日本という国を知られていた。

朝鮮から儒教思想や仏教が伝わった。朝鮮からみれば、伝達した方。

日本は朝鮮とは共通しているものはあるだろう、という読みである。

江華島条約もその延長線上にあった。のではないか。

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