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高句麗の王子:若光(ジャッコウ)が聖地と定めた高麗郡。高麗神社を訪ねる旅。

史跡踏査

日本に来て行きたかったところがある。

それは、高麗(こま)神社である。

高麗(こま)とは古代朝鮮半島にあった「高句麗」のこと

高句麗の王子であった若光という人物が

この地を聖地とさだめ、多くの技術を広めたという。

彼の死後、高麗神社として祀られるようになった。

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関東は渡来人開拓の地

関東特に武蔵野の地は渡来人の痕跡がわかる地名がおおい。

秦野、狛江、相模など

この高麗郡といわれた地域は、

高麗川、高麗神社などがある。

九州や関西ならわかるが、これほど半島から距離のある関東にまで

渡来の足跡がある。

その中心的な群れが、高句麗の末裔であった。

高句麗がする2年前に、この若光が渡来した。

そして1799名も同時にこの地に配属された。

当初初めて上陸したところは大磯である。

そこから徐々に北進したのだろう。

高句麗滅亡後は。

高句麗は新羅と唐の連合によって敗れ、滅亡する。

668年。

高句麗には騎馬、畑作、織物などの技術があった。

それが、日本に渡来することによって、日本で花開く。

以降、鉄の技術は日本の武士へ流れ、戦国時代へと入っていく。

若光の移動経路

若光は当初朝廷から東国への移住を命じられた。

東国は当時朝廷に従わない蝦夷などがいた。

それらを防衛するための目的もあったという。

渡来人が上陸した場所が今の大磯である。

この大磯の前には、高麗山がある。

そこから入って、徐々に北上し、開拓をしていったのであろう。

そこをさらに北上してみると、あの古墳群のがる狛江にぶつかる。

そしてさらに北上すると、高麗神社のある高麗郡に当たる。

この高麗郡周辺には、秩父があり、ここでは銅が採掘されていた。

この銅から和同開珎として貨幣の流通が始まるのであった。

武士文化の礎

これら渡来人は先進の文化を引き下げてきた。

その中でも製鉄、馬具、紙の生産、畑作、など多義にわたる。

それによって、ここから馬を使った戦闘集団が生まれる。

それが、「武士」である。

この武士が東国の蝦夷に対するようになっていく。

この武士の礎を作ったのが、まさに、高句麗の渡来系集団であったことが

伺われるであろう。

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