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任那(みまな)日本府とは何か。倭の出先機関か、それとも外交使臣なのか。

歴史考察

日本と韓国の古代史において非常に厄介でかつ解釈に困難を期しているものがある。それが「任那」である。日本語では「みまな」といい韓国語では「いんな」という。

私は幼いころ、教科書でこの部分を目にして非常に印象深かった記憶がある。日本と朝鮮半島には共有する場所があり、両国が行き来していて、ロマンを感じるほどであった。

しかし、後々、この任那が両国の歴史問題で非常に敏感でやっかいなものであるということを知ることとなる。

日本は先の半島への植民地支配を正当化していると非難される。戦後それでも、日本側は広開土王碑を根拠に、出先機関があり、朝鮮南部を実質干渉していたということを主張することとなる。

広開土王碑は高句麗の王、広開土王を称える石碑で、中国の吉林省にある。高さ6メートルのアパートの三階建てほどのものがそびえ立っている。そこに「倭」が

391年に海を渡って百済や新羅を破り、臣民とするという文があるという。今では否定的な見解であるが、この「倭」の半島進出を根拠として、

南部への実質支配を認めようとしたのだ。

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加羅の安羅国

伽耶や加羅ということばは歴史に興味がなくても、一度や二度は聞いたことがあるだろう。韓踊りやカラ心といった言葉を耳にする。カラとは外来という意味と同時に、朝鮮の南部にあった連合国、加羅(伽耶)を意味する。

日本にこの言葉がいたるところに残っているのは、「加羅や伽耶」からの文化的な影響があったとみていい。朝鮮半島の今でいう、慶尚南道や全羅南道の南に位置していた。

そこは、まず鉄の生産に長けていた。海にも面していて、鉄の貿易でかなり栄えたという。

その代表的な国が、安羅国であった。

この安羅はあまり聞きなれない国ではあるが、まさに問題になっている、任那にあたる位置にあったという。

伽耶(加羅)の復興会議

「日本書紀」を見てみると、復興会議という言葉が目につく。一度滅ぼされた国をまた、復興させようという運動であろう。

百済や高句麗は滅んだ。そのために多くの遺民が列島に渡ったという。そんな中でも、神社を祀りながら、再度その復興に思いをはせたのである。

この加羅(伽耶)の諸国も同じである。

滅ぼされた側としては、恨みが残る。韓国語ではこれを

恨(ハン)」と呼ぶ

韓国では今もよく使う。しかし、日本の恨みとは少しニュアンスが違う。

悲しみが残り、望郷の思いにはせるような感情ではないだろうか。半島の人は常に故郷を追われてきた。

加羅、安羅の人々も同じだった。と予想される。

ではどこにその復興を要請しながら、協力を得たのだろうか。

そこが、「倭国」ではなかったか。倭国側は、がほしかった。

鉄は何を意味するか。

「鉄」単なる武器や貿易の対象ものではなかった。日本すなわち倭国にとっては、政権をとるかとられるかの重要な象徴でもあった。

その輸入先が「安羅」国であった。その安羅国が危機に瀕している、または滅ぼされようとしている、としたら、どうだろうか。

軍を送るという方法がまず考えられる。しかし

軍を送ることは相当たやすいことではない。

海を渡ることのリスクは大きい。そこで、新羅や高句麗との間をとりもつ

仲裁役という手段も考えられる。

この仲裁役が、「外交使臣」として半島に送られたと考えていいのではないか。

日本府をヤマトノミコトモチと読む

府というと、今の京都府や大阪府を想起する。

もし日本府と現代風に読むと、まさにどこか地域を指していることとなる。

しかし、この府を「ミコトモチ」と読んでいることを見ると、ミコトすなわち高い高官や貴族を指すこととなる。

そうすると、人であるということがわかる。では単なる人なのかというと、もし人ならば、人名が使われるはずであろう。

そこで、人名を使わず、漢字で日本府と記すところから、外交機関のようなものが、倭国に存在していた。とみるのが妥当ではないだろうか。

数人単位なのか、数十人単位かはわからないが、安羅の復興や加羅への支援のための機関がこの日本府つまりヤマトノミコトモチということになる。

日本書紀の著者の意図を知るように、文献を深く読みつつ、考古学的な見地を参考にすることを期待したい。

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