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任那(みまな)とはどこを指すのか。半島南部での候補地から考える。日本書紀の記録から『宋書』倭国伝まで。

歴史考察

任那(みまな)とは不思議である。古代史における任那をどこに指定するのか。具体的には定まっていないようだ。

それでも、朝鮮半島の南部であり、伽耶諸国を表しているということでは一致しているようだ。その一つの候補が金官伽耶である。伽耶が小国の連合国家であるということがわかっているが、その中でも規模の大きかった国が金冠伽耶である。今の金海(キメ)が推定されている。

今まで、新羅の力が強調されていたがゆえに、この金海(キメ)の金官伽耶の存在が過小評価されていたが、実際には金官伽耶の方が当初先進文化を備えていたかもしれない。南朝である宋はこの考え方に近かったのであろう。

もう一つの候補の一つが朝鮮半島の南全体を占める地域、特に伽耶連合のすべてを示すというものだ。古代の日本ではどちらかというと、この朝鮮半島全体を伽耶とみていたという推測がある。

金官伽耶始祖の墳墓
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1.崇神紀と垂仁紀の記録

崇神天皇や垂仁天皇を実在とするかは定かではないが、記録上では、この二人の天皇の記述から「任那」の文字が見え始める。崇神天皇の和風諡号は

ミマキイリビコイニエノスメラミコト

ミマキ(御間城)という文字からミマナを想起させる。ミマナと関係のある天皇であったのだろうか。皇后もミマキ姫という。

次に垂仁天皇の御代になると、はっきりと任那という文字が現れる。

任那の人であるソナカシチという人物が「国に帰りたい」という。そこで赤絹百匹を持たせて任那の王に送られた。またはある説には大加羅国の王子である、「つぬがあらしと」が国に帰りたいというので、彼の国をミマキ天皇の御名をとって、「みまな」という国名になったというのである。

これを史実と捉えるかどうかは、検証をしなければならないが、神話と史実の間にあったとされるこの崇神天皇や垂仁天皇の記録より、かなり太古から朝鮮半島の南端と倭とは深い交易があったと推測される。

2.『宋書』倭国伝

五世紀はじめたからやく一世紀の間に倭の五王(さんちんせいこう)が中国の宋に朝貢したようすが記されている。

興死して弟武立つ。自ら使持節都監倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東代将軍倭国王と称す。

武は雄略天皇を指すといわれる。七国の支配権を主張しそれを受け入れてほしいと要請する。これは順帝の治世478年のことと言われている。順帝が認めたのは、このうち、

新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事・安東大将軍倭王であった。任那や加羅の安東大将軍として認められていることがわかる。

空白の4世紀は中国側の倭の資料がないため、この5世紀の『宋書』倭国伝からある程度の倭と任那との関係が読み取れる。私が注目したいのは、任那と加羅が別々に記されていること。そして秦韓と慕韓とが記されていることの二か所である。

もし、任那が半島の南とするならば、任那と加羅が別々に記されていることは違和感がある。よって加羅とは異なる「任那」を宋も倭も認識していたのではないだろうか。加羅と書くと大伽耶と解釈できる。よって任那はそれ以外ということになるだろう。

秦韓は半島の国の一つで、新羅依然に存在していた辰韓の内の一つではないだろうか。最後に慕韓であるが、これも三韓の一つである馬韓の内の一つの国と考えていい。

このように考えると、任那も半島でのある程度国としての権限をもっていたことにならないであろうか。

金官伽耶博物館

3.栄山江流域

半島で初期古墳時代の前方後円墳が発掘された。その地域は半島の南西部、現在の全羅南道である。特に栄山江流域である。この流域に6世紀にできたといわれる前方古墳群が姿を現した。倭との関係性が注目された。さらに日本の糸魚川からしか出土しないはずのヒスイ(翡翠)が発見されている。

このことから、栄山江流域は倭と関係が濃厚になってくる。

ここは海上交易にも地理的に優れていて、特に百済だけでなく、南朝からの先進文物を取り入れられる地域と推定されるだろう。

ここは百済の地域だったのか、伽耶の一国だったのか。ただ、もし任那の位置を推定するのに一つの候補となりえると思える。

4.安羅とのかかわり

任那日本府との関係から日本書紀の記述の「在安羅諸倭臣」を安羅に派遣した使節団という見方がある。安羅は今の韓国慶尚南道にある咸安(ハマン)郡である。この地域にも古来から往来があったとみていい。

いづれにせよ、この安羅との往来や交易も視野にいれると、任那の範囲はかなり広くなるかもしれない。

5.任那とカラ

任那とは何かを解明するのに、「カラ」と比較することで見えてくるものがないだろうか。「カラ」は韓、加羅、漢、そして唐など、多くの漢字があてられる。当初、「カラ」といえば、大伽耶か金官伽耶をさしていたかもしれない。そこから徐々に「カラ」の概念が広くなっていく。それが、伽耶連合や朝鮮半島の南までの地域を指すようになっていった。そして、「韓」や「半島」を表すようになり、結局「唐」や日本以外の外国までも広くなっていく。

本居宣長が「漢心(からごころ)」と名付けて、「大和心」と対峙したことは有名である。彼が示したカラは、外来から流入してきた外来の思想である。つまり「カラ」とは外国という意味になるだろう。

そこから付随して考えると、この任那も当初はある一定の地域を指していた。例えば、金官伽耶や安羅など。しかし、その交易範囲が広がる中で、徐々に大伽耶や栄山江流域などにまで広がったとみるのはどうだろうか。任那という言葉が、日本で用いられながら、当初は神話のかなで、そして対外の名称となり、記紀にいたっては権威づけいの象徴にまで発展したとみるのはどうだろうか。

それが、任那をあいまにした原因となっているとみる。

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