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新羅の海洋王【張 保皐(宝高)】チャンボゴの軌跡を追う。彼はいったい誰なのか。

歴史考察

韓国の歴史の中で新羅という時代は、韓国の観光地慶州や韓国歴史ドラマを通して馴染みぶかくなっている。また、日本にも新羅という名のついた神社や記紀に記録されていることから、韓国の古代史を語る上で欠かせない時代である。

さてこの時代の特徴として、航海術が進歩していたことを理解している人がどれほどいるであろうか。さらに、世界各地との交易で栄えたという点にも注目しなければならない。

その主役となっていたのが、チャンボゴ(張 保皐)という人物。彼は新羅だけでなく、唐や日本にも多くの影響を与えている。

それでもまだ不明な点も多い。韓国歴史ドラマ「海神(ヘシン)」というドラマでは、低い身分から徐々に成功を勝ち取っていく物語として描かれている。

実際の彼の生涯はどのようなものだったのだろうか。

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円仁と円珍の恩人

天台座主として知られ、遣唐使の一員であった円仁。彼は何度かの唐入国の際に、当時の新羅村にいた新羅人の助けによって、何とか長安にたどり着き、9年の歳月を唐で過ごすことができた。

その時に記録した旅行記がある。「入唐求法巡礼行記」である。玄奘の「大唐西域記」やマルコポーロの「東方見聞録」とともに、東アジアの三大旅行記として知られる。

ここに張 保皐(チャンボゴ)も記録されているのである。直接会っているわけではないが、その文脈から円仁が非常に尊敬の念をもっていたことがわかる。円仁は彼に手紙まで書いている。

実際円仁が唐の各地を回りながら、新羅人に世話になり、山東半島の赤山法華院を見ながら、張 保皐(チャンボゴ)に思いをはせざるをえなかったであろう。赤山法華院は張 保皐(チャンボゴ)の支援で建てられたというからである。

円仁は帰国後、この赤山法華院を模倣しながら、赤山禅院を建てることとなるのであった。ここには赤山大明神が祭られているのであるが、張 保皐(チャンボゴ)を神として祀っているともいう。

また、彼の後に遣唐使として唐に渡った円珍は、唐から日本に帰国の際、嵐に遭う。そこで彼は宗教的な体験をするのであるが、それを新羅明神として祀るようになった。これは定かではないが、張 保皐(チャンボゴ)を神として祀っているという説がある。

新羅の貿易大国

当時新羅ではアジアを中心に交易が盛んであった。絹織物、金銀の細工品、高麗人参そして磁器など。この貿易は日本、中国はもちろん、マレー半島やアラビアまで拡大していたと推測されている。

オマーンで生育されているという玳瑁(タイマイ)というウミガメ。そのウミガメの甲羅から作ったとされる櫛や、ボスウェリア属の樹木の樹皮で作られたとみる「乳香」が慶州で発見されている。

まさに海のシルクロードを辿って、慶州と世界はつながっていたのであろう。その大きな役割を担っていたのが、張 保皐(チャンボゴ)であった。彼が海洋の王といわれる所以である。

彼はどのようにして海洋の王となっていったのだろうか。

中国(唐)での出世

彼の出生は謎である。記録はない。ただ、名前を弓福(クンボク)・弓巴(クンパ)といったらしい。弓という字があることから、弓をよく射る、また乗馬も長けていたのではとされる。

これまた推測ではあるが、島の出身。まずいい船頭の息子ではなかったかという。そんな彼の境遇は、島から出て、大都会や大きな舞台で出世すること。中国に渡ったのもそんな背景があったのではないであろうか。

「張」という姓も当時中国ではよく使われていた姓だったといういわれる。彼は後、徐州の武寧軍少将という位置まで上り詰める。唐での大出世であろう。当時各地で反乱があった。それらを鎮めていく役割があったのだろうか。中国でも一躍認められていく。

唐の詩人・杜牧(803~853)は詩文集「樊川(はんせん)文集」の中で彼のことを記す。彼は東洋で最も素晴らしいという評価をする。

そんな噂は新羅の都にも届く。当時海賊が人身売買をして、人をさらっていく。それを解決するために張 保皐(チャンボゴ)に白羽の矢が立つ。彼は青海鎮(チョンへジン)大使という管理に任命される。今の半島の南に位置する莞島(ワンド)郡がそれである。

青海鎮(チョンへジン)大使

ここは海上交易の要所であった。大宰府、唐、新羅の三国をつなぐには、適当な位置にある。その後、この要所を利用して、財を蓄え、政界にも進出するようになる。

鎮海将軍や感義軍使という高官に任命される。この時代は新羅の末期。中央政界では王位を奪いあう血で血を洗う王位争奪戦が繰り広げられていた。

反乱者として

新羅王42代王の興徳王(フンドクワン)には後継者がなかった。そこから徐々に親族同士が王位を巡り、争乱の時代となる。43代王の僖康(ヒガン)王によって殺されるのではという恐れから、興徳王の叔父の子であった金祐徵(キムウジン)は張 保皐(チャンボゴ)を頼って、青海鎮(チョンへジン)に逃げていく。

張 保皐(チャンボゴ)は彼を暖かく迎える。これまた興徳王の甥である金明(キムミョン)という人物が反乱を起こし、44代の閔哀王(ミンエワン)となる。そしてこの反乱に対して救国という大義名分を掲げて、金祐徵(キムウジン)はこの閔哀王(ミンエワン)を倒し、45代王神武王(シンムワン)となる。

この時張 保皐(チャンボゴ)は神武王に自らの娘を妃にするよう約束をしたという。その後、文聖王(ムンソンワン)が即位したときに、このことを打診する。が、側近は

“張 保皐(チャンボゴ)が島の出身で、貧しい家系の子孫だ”ということで、反対したという。さらに、

もと部下であった家臣を刺客として送られ、酒の席で殺されるのであった。

新羅の記録特に「三国史記」では彼は反乱者として記録されている。

まとめ

張 保皐(チャンボゴ)という不可解でありながらも、この東アジアに大きな影響を与えた人物。どうしてここまで彼を慕う人がいたのだろうか。張 保皐(チャンボゴ)を知ることは、東アジアの交流とさらに文化を知る一歩になるのではないか。

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