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慈覚大師:円仁の『入唐求法巡礼行記』から見た統一新羅の海神(ヘシン)【張 保皐(宝高)】チャンボゴと赤山明神の正体

歴史考察

統一新羅の末期にアジアの貿易に大きく影響を与えてた海の王張宝高(チャンボゴ)。彼に関する資料は少ないのです。彼の幼少期や青年期などの資料はまったくない。突然新羅の政治に登場してくる、不可解な人物でもあります。

しかし、彼を評価するのは、新羅ではなく、その周辺国であったことは皮肉ともいえます。例としては、あの遣唐使で唐に渡り無事に勉学を果たし帰国した、天台宗の大師:円仁もその一人でありました。彼は行く先々で、新羅人に厄介になったと、『入唐求法巡礼行記』の中で綴っています。

さらに、チャンボゴに関しても、尊敬の念を示しながら、記載されているのです。

今日は円仁の逸話や記録をもとに、チャンボゴの正体について追及してみたい。

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円仁の赤山禅院から

さて、まず円仁の遣唐使から話しを進めていきます。

彼は838年に入唐し、天台教学・密教・五大山念仏などを修学し、847年に帰国します。

第三代天台座主になり、864年に亡くなります。その時遺言として

“唐で無事に旅することができたことは、赤山法華院の加護があったからだ”

“それに因んで赤山禅院を作って、赤山明神を祭ってほしい”

ということだった。

その遺言を引き受けた安慧(あんえ)という四代天台座主は888年に「赤山禅院」を創建します。当初は「赤山社」といっていましたが、そこに赤山明神を勧請したということでした。

では、一体この「赤山明神」とはどんな神なのか。次にこの赤山明神について少し見てみたいと思います。

赤山大明神とは

赤山明神または赤山大明神とは、円仁が唐に入って、新羅人のススメによって霊山の一つ五大山に向かう途中に滞在した寺院であった。

赤山法華院で祀られている明神ということになります。ここは山東半島の登州にあり、新羅人のコミュニティーがあったところでもあります。

また、この法華院は貿易王の張 保皐(宝高)によって建てられたものだったのです。

さて赤山明神はまたの名を道教の神である「泰山府君」ともいいます。人の生死を司り、死後は罪にしたがって裁く死後の世界の神と伝えられます。

また陰陽道の祖として知られ、方除けの神としても知られています。

泰山とは山東省の霊山であり、中国の五岳の一つとされています。

泰山という霊山に住まわれる道教の神というところでしょうか。

赤山明神と泰山府君について

赤山明神とは一般に泰山府君と同じ神であるといえるでしょう。

しかしここで疑問に残るのが、円仁の遺言です。

ほんとに円仁は赤山大明神を泰山府君として捉えていたのかということです。

つまり、赤山明神は円仁にとって泰山府君であったのかどうかという点です。

それを彼の大著『入唐求法巡礼行記』や円仁の逸話などを通して、赤山明神を探ってみたいと思います。

円仁の『入唐求法巡礼行記』

この記録は旅日記という次元でなく、仏教はもちろん、当時の唐の様子、現地の文化・風俗などを詳細に盛り込んだ資料的価値の高い見聞録であります。よって大唐西域記や東方見聞録とともに三大見聞録と数えられる所以であります。

驚くべきことは、当時の新羅人との交流の記載が多いということです。それだけ、唐には新羅人が居住していたこと、そしてチャンボゴの影響力があったことが伺えるのです。

さっそく博多から出発するのですが、通訳官として全正南という新羅人が同行します。彼の使命は天台山に行き、そこで天台教学を学んで帰ってくることでありました。

船は難破しながらようやくにして上陸。そこでは大きな蚊やアブに悩まされたり、持参した土産物は水に濡れてしまったといいます。まずは海上貿易の拠点である揚州につきます。

ここで天台山への渡航許可を得ようとしますが、かなわず結局不法滞在の身で滞在しなければならなかったのです。次に運河を通り楚州に移り一度帰国の船に乗るのですが、嵐に会うすきに船から脱出して、唐にふみとどまることとなります。また海州というところでは新羅人のふりをしていたのですが、新羅語を話していないということを通報され、一時は不法滞在として捕まってしまうところでありました。

そこからさらに山東半島に向かい、赤山法華院に到着します。ここは新羅人の村でもありました。ここの長老の張詠という人物や林大師、王訓という人物にとても世話になったということで、ここで3年過ごすこととなります。

その後、新羅人の支援とチャンボゴの配慮によって五大山への渡航許可が下りるのです。また、実際にチャンボゴの貿易船が赤山浦に入港し、彼の配下が円仁を慰問したこともありました。このことから、円仁はチャンボゴに感謝の手紙を書いています。

また筑前の太守から預かった手紙を紛失したと謝っています。手紙では閣下という敬称を用いて尊敬の念を表しています。

五大山まのでみちも険しく食糧不足を抱えながら、一日30~40里を歩きます。そしてやっと到着した聖地で地に伏して文殊菩薩の前で涙をします。840年に長安へ到着。ここで5年の歳月を勉学と修行に費やすのです。

長安は全世界から留学生や旅行者、官僚などで世界都市となっていました。そんな中、武宗の仏教弾圧が始まります。4600ほどの寺院は破壊され、僧はみな還俗を強いられます。

このとき赤山法華院も破壊されたようです。

円仁はこのときも、役人につかまりそうになるのですが、守護神が現れなんとか難を逃れたという不思議な体験をします。こんな状況から還俗させられる前に、帰国をすることを願います。

円仁 日本への帰国

帰国を強いられる中、揚州、楚州を経て、再度赤山法華院にたどり着きます。ここでもかつてやっかいになった張詠に助けられます。ここから、新羅人が作った新羅の船を利用して、故国に帰ることとなります。当時すでにチャンボゴは暗殺されこの世にはいませんでした。

日本帰国の渡航中、嵐にあいます。ここでも彼は神秘的な体験をします。

摩多羅神(またらじん)という神が現れ、船が沈まずに済んだというというのです。その時の神の様子は「赤い衣を着て、白羽の矢」を持っていたということです。

その姿と同じかどうかわかりませんが、赤山禅院の絵馬にはそれと似たような人物が描かれたいます。

摩多羅神は渡来人の神、航海の神?

マタラという響きから異国の響きを感じます。サンスクリット語かインドの俗語かともいわれています。

広隆寺の境内の大酒神社でおこわなれる祭りで、

異様な面をつけ牛に乗って現れる摩多羅(まだら)神と四天王と呼ばれる赤鬼・青鬼が祖師堂の前で奇妙な節をつけて祭文を読み,参拝者たちがその悪口をいうものだということです。

寺院に祭りが行われるのはめずらしいとのこと。摩多羅神は唐模様の頭に北斗七星を飾っているといいます。

唐模様は「唐」というより「カラ」つまり朝鮮半島の「韓、加羅」などを表しているともいえます。

この神がインドの神、広隆寺で行われるところから秦氏の神さらには新羅の神とも解釈されるところです。渡来の神と言っていいのではないでしょうか。

当時日本に来訪した神として摩多羅神は広く崇拝の対象としての位置を占めていたとも考えられます。

渡航をすることにおいても、この神の加護があると信じられていた可能性もあります。頭に北斗七星を飾っているところからそれを示唆します。

このような背景を考慮すると、円仁にとっての赤山明神とは、冒頭で見た中国の霊山に鎮座する「泰山府君」というよりは、広隆寺で祀られている「摩多羅神」でもあったのではないでしょうか。

円仁にとっての赤山明神は

円仁にとっての赤山明神とは何であったのかを整理してみましょう。それを次の内容から推測してみました。

1)唐での新羅人からの援助

2)新羅の船で帰国。途中で嵐の中、摩多羅神に出会う。新羅の船だということが重要。

3)帰国後、香春神社に赴く。福岡の田川市にあった新羅系の寺院跡。香春神社は新羅や秦氏と関わりあったと伝えられる。

4)横川中堂の赤山宮には新羅明神を守護神として祀っている。

このことから考えると、円仁の守護神とは新羅と関係のあるいわゆる、「新羅明神」と指摘できるのではないでしょうか。

新羅明神

円仁にとっての新羅明神とは

唐での苦しい旅の最中、ところどころで出会った新羅の村、新羅人。

そしてその背後で支援をしていた、「チャンボゴ」という図式が浮かびあがってきます。

円仁は遺言でしか、この赤山禅院の創建を指示していません。彼の心の中には、赤山明神そのものというより、

新羅明神そしてチャンボゴその人を祀りたかったのではないでしょうか。

チャンボゴがいわゆる、円仁にとっては「新羅明神」なのであったと考えられます。

さらに円仁の後に遣唐使として派遣されたあの円珍も

嵐の中、「新羅明神」に出会ったといいます。 この円珍と新羅明神についてもいつか解説をしてみたいと思います。

購読ありがとうございました。一緒に学びながら知的生活を楽しみましょう。

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