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【高麗の歴史】高麗15代王の粛宗(スクチョン)の治世と高麗の全盛期の陰り。

歴史考察
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甥である14代献宗(ホンジョン)から王権を奪う

高麗の王位継承の伝統は

兄弟相続であった。

しかし、高麗王13代の宣宗(ソンジョン)は、死の間際に

子供の献宗(ホンジョン)に譲ってしまう。

献宗はそのときまだ10歳。

さらに、体も病気がちであった。

本来は宣宗(ソンジョン)の弟で、高麗11代王であった文宗(ムンジョン)の3男が継ぐはずであった。

というより、3男である粛宗(スクチョン:当時は鶏林公)が、次の王位は自分であると予想していたことは間違いない。

しかし、結局は甥であった献宗(ホンジョン)が王位を継ぐ。

結局病弱な献宗(ホンジョン)は、退位せざるをえなくなるのではあるが。

もともと、粛宗は聡明であり、周りからの信望もあつく、父からも有望視されていたという。臣下からの信頼も厚かったと予想される。

しかし、王位に就こうという矢先に、豪族であった仁州李氏勢力が献宗(ホンジョン)の弟を王位に立てようと工作する。

このことをチャンスだと思い、粛宗はこれらの勢力を粛清することとなる。

粛宗は王権強化に乗り出した。また商業を奨励するために、貨幣の鋳造にも力をいれた。

女真族との関係

そんな中、

北方の国際秩序は

女真族との関係に悩まされるようになっていった。

そこでこれらを抑えるために、「別武班(ピョルムバン)」という騎馬隊を編成する。

高麗にとっては女真族は朝貢してくる民族であった。

これを事大という。

後にこの別武班(ピョルムバン)は1107年に女真族を討伐して、東北9城を作ることとなった。

しかし、女真族が「金」を建国することになり、逆に事大をするということになってしまうという屈辱を得る。

このころから、徐々に高麗の全盛期に陰りがでてくる。

後の18代王毅宗(ウィジョン)の治世から武臣政権が政権をとるようになっていく。

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