私はユーチューブで朝鮮王朝を一代から27代まで順に解説を試みた。事実、朝鮮に関することは、専門家でもなく、まただれかに教わったものだもない、初心者の立場からの出発であった。そしていよいよ、最終章といわれる、27代の王、純宗(スンジョン)へとコマを進めていった。
長い期間ではあったが、この朝鮮の王室とは何であったのか、少しづつ垣間見ることができるようになった。その一つが、王の跡継ぎ問題、いかに王統を絶やすことなく、維持することができるかが問われていたのである。
そしてそれは、単なる李家にかかわる問題ではなく、政争や派閥さらには民衆と周辺国をも巻き込む、歴史を左右するものへと様変わりしていくことを知るようになった。
最後の王純宗も同じである。
しかし、この王は高宗(コジョン)という大韓帝国を建国し、自らが皇帝になり、清とは決別することで、近代国家の仲間入りを果たそうとした王の直系子息なのである。
この王は朝鮮の時代を幕を下ろす最後の王となった。
1.朝鮮王朝最後の王様とその後
1907年に高宗(コジョン)の廃位に伴って、純宗が即位することとなる。これは高宗が願って廃位し、純宗に譲位したものではない。ハーグ密使事件による責任を追及するものであった。
純宗(スンジョン)はほとんど、傀儡であり、形式的な王位継承ということとなる。朝鮮王朝の王位継承は今までも、冊封体制によるところからくる、中国の干渉は否めないものである。やっと、清から独立を果たしたかと思いきや、
日本の内政干渉が進み、1910年には日韓併合となる。
それによって、純宗までもが、廃位に追いやられることとなる。
ここで、朝鮮王朝は終わってしまうのか。終わってしまったと解することができるであおるか。
いや、すでに、高宗(コジョン)の側室の子息にそのバトンは用意されていた。それが、世弟(セジェ)である李垠(イ・ウン)であった。
2.純宗の異母弟が世継ぎに
純宗(スンジョン)を語るには、この世弟(セジェ)つまり弟としての世継ぎを語らなければならないであろう。
その背景は毒茶事件とかかわっている。
高宗(コジョン)はコーヒーを好み、お茶会を楽しんだといわれる。その席に同行した純宗。しかし、そのコーヒーにはアヘンが含まれていて、二人はそのコーヒーを飲んでしまう。
それによって、純宗の体は子供を産むことのできない体となってしまった。
ではこのことを周囲はどのように考えるだろうか。実際純宗の母、明成皇后は5人子供がいたが、成人となったのはただ一人、この純宗だけであったのである。
この純宗に後継者への希望が無くなるとなれば、次の後継者を選ぶ問題が生じてくる。その白羽の矢があたったのが、李垠(イ・ウン)なのであった。
しかし、1910年に日韓併合が調印されると、王朝の存在は危うくなる。
そこで、日本はこの李垠(イ・ウン)を日本に留学させるのであった。
その理由はどこにあるのであろうか。
3.李垠(イ・ウン)と皇室
李垠(イ・ウン)を日本に留学させ、ほとんど日本人同様に生活をさせていた。ここに、疑問がわいてくる。
彼が好き好んで日本行きを選んだのだろうか。
いや、彼は日本行きを望まなかった。
この二つの解釈はかなり大きな溝になっている。正反対なのである。
さらに驚くべきことは、彼が皇室である梨本宮の長女、方子様と婚姻させるという、いあゆる政略結婚が行われるのである。
方子様はこの事実を、新聞に掲載されているのを見て、初めて知ったとのことである。
もちろん皇室の結婚は自由恋愛などはもってのほかではあるが、これはまったく見覚えのないそして、国の異なる人と結ばれる「国際結婚」なのである。
4.この結婚が意味するもの。
この結婚が意味するものは果たして何なのであろうか。
日本民族に取り込もうとする「皇国臣民化政策」の一つなのであったのか。
それとも、朝鮮の王家を絶やさないための、配慮だったのであろうか。
戦後は民間人となってしまった、この夫婦は、しばらくは日本で暮らし、
1963年にようやく韓国の地を踏む。
その韓国で方子様は障害者福祉事業を展開する。
政略結婚ではあれ、歴史に刻まれたのは、日本の皇室と朝鮮の王族が結婚したとう事実なのである。
知らず知らずと、朝鮮の王族の血統を絶やすことのない方向に向かっていたと解釈できないであろうか。
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