お腹の中にいるときから、国を征伐する使命があたえられていた。応神天皇である。しかし古事記の原文では国を征伐するという文字が欠けている。宣長はそれを補うとして「定」とうい字を用いて解釈した。はたしてこれは妥当であろうか。
また、国を征伐するにしても、国とはどこを指すのか。ほとんどの注釈は「三韓」としている。他に可能性はないだろうか。
まずは原文をみつつ
いくつかの解釈をみてみたい。
【原文】は以下
帶中日子天皇、坐穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮、治天下也。此天皇、娶大江王之女・大中津比賣命、生御子、香坂王、忍熊王。二柱。又娶息長帶比賣命是大后生御子、品夜和氣命、次大鞆和氣命・亦名品陀和氣命。二柱。此太子之御名、所以負大鞆和氣命者、初所生時、如鞆宍生御腕、故著其御名。是以知、坐腹中(定)國也。此之御世、定淡道之屯家也。
帶中日子天皇
たらしなかつひこのすめらみこと。第十四代仲哀天皇。倭建命の子。
【原文】帶中日子天皇、坐穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮、治天下也。
【読み下し文】帶中日子天皇、穴門の豊裏宮と筑紫の訶志比宮とにいまして、天の下を治めき。
息長帶比賣命と品陀和氣命
息長帶比賣命は仲哀、仲哀天皇の后、応神天皇の母。
品陀和氣命:後の応神天皇
大鞆和氣命:おおともわけのみこと。鞆は左のひじにつける武具。
如鞆宍生御腕
鞆宍:鞆(とも)の如し宍(しし)。宍(しし)とは肉のこと。鞆のような肉が腕にできたいた。それで、名前を大鞆和氣命とつけたということである。
はたして鞆の浦との関係があるのだろうか。
坐腹中定國也
腹の中にいたときから国を征伐する。征伐に参加したと解するのがいいのではないか。
定國について
『古事記伝』では「定」の字を補い定めるとしている。小学館の『古事記注釈』では「平」という文字を補っている。たひらげつるとなる。また、度会延佳は「知」を補う。よって国を知らしめきとなる。
岩波の『古事記」では「中」をあえて読んで、国に中(あた)りたまひしとしている。よって坐腹中國也は腹にいますときに、国を征伐したということとなる。
この国とは三韓としていることがほとんどだ。宣長も「三韓」としている。しかし、あえて韓国とか三韓といわなかったのはなぜであろうか。
『古事記』の政策上、国としかいえない事情があったのだろうか。熊襲という可能性はないだろうか。
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