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【古事記】を読もう。鑑賞と研究:仲哀天皇。⑵神功皇后の神託。神帰、沙庭、向一道

記紀研究

この箇所は神功皇后が神がかりをするところである。その場所が筑紫の訶志比宮で、さ庭となっている。また、その神託を信じなかった仲哀天皇は神のいかりに触れて、一道に向へと命ぜられる。さ庭そし一道とはどこを指すのだろうか。最後に「あそばせ」について考えてみる。

原文は以下である。

【原文】

其大后息長帶日賣命者、當時歸神。故、天皇坐筑紫之訶志比宮、將擊熊曾國之時、天皇控御琴而、建內宿禰大臣居於沙庭、請神之命。於是、大后歸神、言教覺詔者「西方有國。金銀爲本、目之炎耀、種種珍寶、多在其國。吾今歸賜其國。」爾天皇答白「登高地、見西方者、不見國土、唯有大海。」謂爲詐神而、押退御琴不控、默坐。爾其神大忿詔「凡茲天下者、汝非應知國。汝者向一道。」於是、建內宿禰大臣白「恐我天皇、猶阿蘇婆勢其大御琴。自阿至勢以音。」爾稍取依其御琴而、那摩那摩邇此五字以音控坐。故、未幾久而不聞御琴之音、卽擧火見者、既崩訖。

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其大后息長帶日賣命者、當時歸神

帰神:神をよせき(小学館)。神がかり、神霊が乗り移ること(講談社)。古事記伝では「神よりたまへりき」と読むべしとしている。さらに「よりとは、かかりとも読むべし」としている。

天皇控御琴而、建內宿禰大臣居於沙庭、請神之命

天皇控御琴: 天皇が琴をお弾きになりか。控御琴の解釈で「控」について考えてみる。つまり「弾」とは異なるのだろうか。小学館の解釈では「控」は引っ張ることと解釈している。どこか通常の弾き方とはことなるかもしれない。宗教的な儀式上での弾き方とも考えられる。

さ庭:沙庭はどうか。この「さ(沙)」は神稲であり、「庭」は神の稲を積む場所であると、宣長全集の「古事記伝」の補注では解釈している。神託の場所としている。

大后歸神、言教覺詔者「西方有國。金銀爲本、目之炎耀、種種珍寶、多在其國。吾今歸賜其國。

歸神:「神がかりして」と読むか、「神を(帰)よせたまひて」と読むか、解釈がわかれている。

吾今歸賜其國:吾(あれ)、今其の国を帰(よ)せ賜はむ。この「帰(よ)せ賜はむ」とは何か。従わせて、お授けしよう、と解せるか。小学館では「その国を帰服させようと思う。」となっている。古事記伝は「よせ(帰)は’よらせ’にて、憑従来(よりしたがひきたらしむる)なり」としている。さらに、「賜とはその国を賜ひて、蕃国(みやつこぐに)とせむとなり。」としている。

謂爲詐神而、押退御琴不控、默坐

謂爲詐神而:詐(いつわり)をする神と謂(おも)ひて。

押退御琴不控:御琴を押し退けて、控(ひか)ずして、

默坐:默(もだ)す坐(いま)しき。古事記伝では「もだは、むだに通ひて、徒然(いたづら)なる意なり、」としている。

爾其神大忿詔 凡茲天下者、汝非應知國。

神:古事記伝では「天照大御神」としている。

天下:小学館では「西の方の国である朝鮮半島を含めて成り立つ天皇の世界をいう。」としている。天下=大八島国とはとらない。このことからより大きな世界をいうとみられる。

汝者向一道

向一道:通説は黄泉の国への道。古事記伝は「天下は諸道あり。黄泉の国はただ一道なり、と師のいわれたごとく。」としている。岩波書店(古典文学大系)では「一道とはこの世の人の行くべき唯一の道、すなわち死の道の意と解すべき」としている。小学館(日本古典文学全集)では「『記』の黄泉国は死者が行く世界ではなく、神話的世界である。ここで黄泉国を持ち出すことはできない。」としている。現代語訳では「どこか一隅に向かっている」解釈している。

単純に黄泉の国と解釈していないところが興味深いところである。読者はどのように考えるだろうか。

一道という二語ではあるが、非常に難解な言葉ではないであろうか。我々が考える死者の国とは異なる、なんらかの道が想定されていたのかもしれない。

建內宿禰大臣白「恐我天皇、猶阿蘇婆勢其大御琴。

阿蘇婆勢:あそばせ。「遊」とは表記していない。貴人が音楽を奏すること(講談社)。岩屋戸の段に「為遊」とある。これも「遊ぶし」と読むと宣長は指摘している。神遊びは神楽(かぐら)といい、古今集には神遊びとしている。

阿蘇という漢字が使われている。「阿蘇」の語源は景行天皇が阿蘇に巡行されたときに、民家がみえないところから、ここは人がいるのかと尋ねた。すると、あそつひこ、あそつひめという神が人になり、「どうして人がいないことがあるでしょうか」と答えた。つまり「何そ人なしとおっしゃるのですか」の「何そ」が阿蘇となったという背景だ。

「何そ」どうしてという問い。神を迎えての音楽もそんな神への問いから生まれたということからこの「阿蘇」の漢字が使われているのか。

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